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東京地方裁判所 昭和60年(ワ)12101号 判決

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

(当事者の求めた裁判)

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金一〇〇〇万円及びこれに対する昭和六〇年一〇月二二日から支払済みまで、年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  第1項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

(当事者の主張)

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告は、生物物理学を専門とする研究者で、早稲田大学理工学部の教授である。

(二) 被告は、同じく生物物理学を専門とする研究者で、大阪大学基礎工学部の教授、名古屋大学理学部の教授等を併任している者であって、昭和五二年頃以降、生物分子若しくは生物系又はそれらに対してモデルとなる系に関する論文を扱う生物物理学専門の国際的学術雑誌「バイオフィジカル・ケミストリー」(昭和四八年、ノース・ホランド出版社により創刊。ただし、同五六年九月以降はノース・ホランド出版社及びエルセビア・サイエンス・パブリッシャーズB.V.(以下「エルセビア社」という。)により、昭和五七年四月以降はエルセビア社により、それぞれ出版されて、今日に至っている。以下「本件雑誌」という。)の編集人の一人である。

2  論文募集広告

被告は、本件雑誌の編集人に就任後、本件雑誌の誌上において、毎号(概ね月刊ないし隔月刊)、「著者へのお知らせ」と題して、何人でも所定の体裁にて執筆された生物分子若しくは生物系又はそれらに対してモデルとなる系に関する論文の原稿(英文のもの)各三部をいずれかの編集人に対して送付すれば、すべての論文が閲読され、うち編集人が掲載相当と判断する論文は本件雑誌に掲載される旨の論文募集要項を公表し、もって論文募集の広告をした。

3  本件各論文の投稿

原告は、昭和五五年、本件雑誌に投稿する意思で、原告の著作に係る別紙論文目録(一)、(二)記載の各論文(以下、単名のものを「本件単名論文」、共著のものを「本件共著論文」といい、併せて「本件各論文」という。)を、右2の論文募集要項の指示に応じて作成し、同年一〇月頃、被告に対し、その原稿をそれぞれ三部(原本一部及び写し二部)ずつ送付した。

4  被告の債務不履行

(一) 被告は、右2の論文募集要項の公表によって懸賞広告類似の無名契約の申込みをしたものであり、原告は、右3の本件各論文の投稿によって右申込みを承諾したものであって、もって、昭和五五年一〇月頃、原告と被告との間において、本件各論文に関して、懸賞広告類似の無名契約(以下「本件論文投稿契約」という。)が成立した。

(二) 本件論文投稿契約の契約当事者(論文投稿者及び論文を送付された編集人)間においては、当事者間の合理的意思解釈として、又は学術雑誌に論文を投稿した研究者と学術雑誌の編集人たる研究者との間に行われている事実たる慣習に基づき、次のような権利義務が発生するものというべきである。

(1) 論文を送付された編集人(以下単に「編集人」ともいう。)は、論文原稿を受領した後、速やかに受付日付を確定した上、論文原稿受領後相当期間内(遅くとも一年以内)に左記の行為をする義務を負う。

ア 閲読者(又は審査員。編集人から委託を受けて論文を閲読し、編集人に対して当該論文について意見を述べる第三者。)を選定して投稿に係る論文原稿を送付し、右閲読者の意見を参考にし、又は自ら論文内容を検討した結果に基づき、当該論文の掲載の当否を決定する。

イ 論文を掲載相当と判定した場合、論文印刷のための手続をする。

ウ 論文について修正されれば掲載相当と判定した場合、閲読者の意見を付して投稿者に論文原稿を返却して右修正を求める。

エ 論文について掲載不相当と判定した場合、閲読者の意見を付して投稿者に対して掲載不相当の通知をし、論文原稿を返却する。

(2) 論文投稿者は、投稿論文の掲載不相当の決定が通知されるまで、当該論文を他の雑誌に投稿しない義務を負う。

(三) しかるに、被告は、本件各論文の原稿を受領後、(二)(1)記載の義務の履行を怠り、原告の度々の催告にもかかわらず、本件各論文を本件雑誌に掲載することも、修正を求める通知又は掲載不相当の通知を付して本件各論文の原稿を原告に返却することもせず、今日に至るまで五年余もこれを放置している。

5  被告の不法行為

仮に4が認められないとしても、本件においては、次のとおり、不法行為が成立する。

(一) 被告は、昭和五五年一〇月頃、大阪大学基礎工学部の教授で、名古屋大学理学部の教授を併任していたものであり、日本の生物物理学を専門とする学者の中でも最も著名な学者の一人であって、同学界の指導的立場にある者であった。

被告は、また、昭和五五年一〇月頃、国際的学術雑誌である本件雑誌の編集人の一員であった。

(二) 被告は、右立場にある者として、前記のような論文募集に応じて投稿された学術論文を受領した場合には、当該論文について、条理上4(二)(1)の処置を尽くすべき義務を負っており、しかも、投稿論文を受領しながら前記義務を怠れば、その間投稿者は当該論文を他に発表することができず、論文を発表して学界から学術的に評価される機会を失い、あるいは、学術的優先権を失う等の損害を被ることを熟知しながら、本件各論文の原稿を受領後、原告の度々の催告にもかかわらず、本件各論文を本件雑誌に掲載することも、修正を求める通知又は掲載不相当の通知を付して本件各論文の原稿を原告に返却することも行わず、今日まで五年余もこれを放置している。

6  損害

(一) 被告の右債務不履行又は不法行為により、原告は、以下のとおりの損害を被った。

(1) 学者としての学術的評価を受けられなかったことによる損害

ア 原告の本件各論文以外の著作論文は、殆どすべて本件雑誌を含めた学術雑誌に掲載されており、本件各論文もまた、被告がこれを放置することがなければ、無修正であるいは編集人の指摘する点について更に研究及び修正を経た上で本件雑誌に掲載されていた蓋然性が高かった。

イ 仮に、本件各論文が編集人により掲載不相当の判断を受けるべきものであったとしても、速やかにその旨の通知を受けていれば、原告は、本件各論文を他の学術雑誌に投稿し直して論文の掲載を期待することができた。

ウ しかるに、被告が本件各論文を放置したために、原告は、本件各論文が公表される可能性を失い、学者としての評価を受けるべき機会を喪失し、著しい精神的損害を被った。

(2) 学術的優先権を失った損害

本件単名論文が投稿された後である昭和六〇年七月一日、他の学術雑誌であるアプライドオプティックスに本件単名論文と類似した内容のラメシュ・バンダリ執筆に係る論文(論文受領は昭和五九年一〇月二二日)が発表され、原告は、右論文についての学術的優先権を失い、著しい精神的苦痛を被った。

(3) 研究の進展が妨げられた損害

原告は、本件各論文が本件雑誌に掲載されるか、あるいは前記(1)イの経緯を経て他の雑誌に掲載されていれば、右各論文の内容に対し、肯定的であれ、否定的であれ、何らかの学術的批評を期待することができたものであり、右批評は、原告の更なる研究の進展に寄与していたはずである。しかるに、被告により右各論文公表の機会を奪われた結果、原告は、右の意味における研究の進展を妨げられた。

(4) 大学教員としての損害

原告は、被告により本件各論文の公表の機会を奪われた結果、私立大学の教員が自己の研究業績を公式に評価される唯一の書類である「教育研究業績書」(大学の設置等の認可申請手続等に関する規則(昭和五一年文部省令第一五号)、大学の設置等の認可申請に係る書類の様式及び提出部数(文部省告示第八七号)参照。)中に原告の著作学術論文として右各論文を掲載することができなくなり、自己の業績を大学及び文部省に評価されるべき機会を失った。

(二) 右により原告の被った精神的苦痛を金銭に換算すると、その額は一〇〇〇万円を下回ることはない。

7  よって、原告は、被告に対し、債務不履行又は不法行為に基づき、金一〇〇〇万円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日(昭和六〇年一〇月二二日)から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(一)、(二)の事実は、いずれも認める。

2  同2の事実は、否認する。被告は、ノース・ホランド出版社ないしエルセビア社から編集人の一人に選任され、右各社との間で委任契約を締結している者にすぎない。したがって、本件雑誌の論文募集要項も、ノース・ホランド出版社ないしエルセビア社が掲載しているものである。

3  同3の事実中、原告がその主張する日時頃に被告に対して本件各論文の原稿各三部を送付したことは認め、その余は、知らない。

4  同4(一)の事実は、否認する。投稿者である原告と編集人である被告との間には、いかなる契約関係も存在しない。また、投稿者と出版社との間においても、一般に投稿論文の所有権は、特約のない限り、出版社ないし編集人への送付により直ちに投稿者(著者)から出版社に移転するものであり、特に対価を伴う執筆依頼がなされた場合や、論文募集に当たり懸賞の授与その他による勧誘行為がなされた場合等を除き、いかなる契約関係も成立する余地がない。そして、出版社において一定の水準以上の論文ないしは投稿された論文のうち優秀なものを採用することを広告した場合には、優等懸賞広告(民法五三二条)に類似する側面が生じ得るが、これについても、応募の期間を定めなくては効力が生じないところ、本件雑誌においては、右応募の期間を定めていない。そもそも、誌上なされた論文募集の広告は、単なる投稿の申込みの誘引にすぎず、申込みの意思表示とはいえない。したがって、原告とノース・ホランド社ないしエルセビア社との間においても、契約関係は存在しない。

同4(二)の事実は、否認する。

本件雑誌においては、明文の投稿規定はなく、投稿者から送付されてきた論文について、これを採用することも、採用しないことも、採否の決定を留保することも、あるいは全く無視することも、すべて編集人の裁量に委ねられている。また、投稿論文を閲読者の閲読に付するかどうか、投稿者に対して論文受領の通知や掲載の当否の通知をすべきか、投稿者に対して投稿論文の内容修正を求めるかどうかといった論文受領後の手続も、すべて編集人の判断に任された事項であり、出版社又は編集人が投稿者に対してこれらの義務を負っているわけではない。

同4(三)の事実中、被告が本件各論文を本件雑誌に掲載することも修正を求める通知又は掲載不相当の通知を付して本件各論文の原稿を原告に返却することもしていないことは認めるが、その余は、否認する。

5  同5(一)の事実は、認める。

同5(二)の事実中、被告が本件各論文の原稿を受領後本件各論文を本件雑誌に掲載することも修正を求める通知又は掲載不相当の通知を付して本件各論文の原稿を原告に返却することもしていないことは認め、その余は否認する。

6  同6(一)(1)アについて、事実は否認し、主張は争う。

本件各論文は、本件単名論文については新たな知見に乏しく本件共著論文については当然なすべき実験を欠いているなど、いずれもその内容からみて、掲載に値しないものであった。また、仮に原告の本件各論文以外の論文が殆どすべて本件雑誌を含めた学術雑誌に掲載されてきたものであるとしても、そのことから本件各論文も本件雑誌に掲載された蓋然性が高いと推認することは、学術論文の性質上、到底できない。

同イの事実は、否認する。原告は、本件各論文を他に投稿したいと欲すれば、いつでも投稿を撤回して他の学術雑誌に投稿することができた。

同ウの事実は、否認する。本件各論文が今日まで公表されていないのは、本件各論文が掲載に値しないものであったこと、及び原告が本件雑誌への投稿を撤回して他の雑誌に投稿しようとしなかったことによるものであって、被告の責任によるものではない。

同6(一)(2)の事実中、ラメシュ・バンダリの執筆に係る論文が昭和六〇年七月一日に他の学術雑誌アプライドオプティックスに掲載されたことは認めるが、その余は、否認する。右論文と本件単名論文の共通部分は、わずかに光散乱が電磁場理論によって説明できるという点にとどまり、そのこと自体は、理科系大学生程度の水準で、しかも、殆ど公知に属する事柄である。

同6(一)(3)、(4)の事実は、否認する。右は、本件各論文が本件雑誌に掲載されるべきものであったこと及び被告から掲載不相当の通知がない限り原告は他の雑誌に投稿できないことの二点を前提としている点で失当である。

同6(二)の事実は、否認する。

7  被告は、本件各論文に関して次の行為をなしており、本件雑誌の編集人としての義務を尽くした。

(一) 被告は、原告から本件各論文の原稿の送付を受けた後、原告に対して右各論文原稿を受領した旨を口頭で伝えた。

(二) 被告は、右論文の原稿を受領した後、直ちにその閲読者として米国カリフォルニア大学モラレス教授を選定し、同教授に対し、航空便にて同論文の原稿各一通を郵送し、閲読を依頼した。被告が同教授を選定したのは、同教授が本件各論文の主題についての最高権威者であり、かつ、原告の米国留学中の指導教授であって閲読者として最適任であると判断したからである。

(三) その頃、被告自身も、本件各論文を閲読したが、本件単名論文については新たな知見に乏しく、本件共著論文については当然なすべき実験を欠いていたため、いずれもそのままでは掲載に値しないものと判断した。しかしながら、既にモラレス教授に閲読を依頼していたため、同教授の意見が到着しない段階で原告に対して私見を述べることは敢えてしなかった。

(四) その後、モラレス教授からは何らの意見も到着しなかったが、同教授は極めて多忙であること、及びノー・コメントというのも否定的評価の一態様であることから、被告は、同教授に明示の意見を催促することを差し控えた。

(五) 昭和五六年一二月頃、被告は、ある会合の席において原告に会った際、原告に対し、閲読者からの回答が未到着である旨を伝えた。

(六) 同五八年秋、被告は、岐阜大学の黒野キャンパスで開催された日本生物物理学会において原告と会った際、原告に対し、閲読者からの回答は未だ到着しないが前向きに処理するため、被告自身が論文を検討している旨伝えた。

(七) 被告は、原告が名古屋大学の大学生及び同大学大学院生であった当時の指導教授で、原告とは単なる編集者と投稿者という関係にとどまらず、十年余にわたり師弟の関係にあったから、被告が右のとおり告げた以上、本件各論文にどのような不備があるのか、どのように修正すれば掲載に値するものになるのかなどについて、原告の方から教えを乞いに来るものと考えていたが、以後原告からは、全く連絡がなく、二年後、突然本件訴訟が提起された。

(証拠)〈省略〉

理由

一  請求原因1(当事者)の事実は、いずれも当事者間に争いがない。

また、〈証拠〉によれば、原告が本件雑誌上に掲載された「著者へのお知らせ」の記載要領に従って昭和五五年に本件各論文(本件共著論文は安藤敏夫との共著)を完成したこと、及び同年一〇月頃に本件雑誌に投稿する意思で右各論文の原稿を各三部(原本一部及び写し二部)被告に郵送したことがそれぞれ認められる(原告が被告に対して昭和五五年一〇月頃本件各論文の原稿各三部を送付したことは、当事者間に争いがない。)。

二  原告は、主位的請求原因として、右「著者へのお知らせ」の公表は被告による優等懸賞広告類似の無名契約の申込みの意思表示であり、これに応じて原告が前記各論文を投稿したことによって原告と被告との間に優等懸賞広告類似の無名契約が成立したと主張するので、これについて判断するに、〈証拠〉によれば、次のとおり認められ、この認定に反する証拠はない。

1  本件雑誌は、物理化学の原理及び方法に基づく生命現象の研究の分野(生物物理学)に関する英文の雑誌(概ね、月刊ないし隔月刊。)であって、右雑誌の趣旨は、各国の研究者(資格は問わない。)から同誌に投稿された未発表の論文を掲載発表するというものであり、したがってまた、各号の雑誌の内容は、殆ど右投稿論文の掲載からなっている。

2  同誌においては、右論文の投稿に関して論文の募集を明示的に示した記事はないものの、毎号誌上に「著者へのお知らせ」と題する記事が掲載され、そこにおいて、原稿を投稿する場合は英語で書いて編集人の一人に三部送付すべきこと、すべての投稿論文は閲読されることなどのほか、題名、要旨等の付け方などの原稿作成上の注意が読者に提示されている。

3  同誌においては、雑誌の質ないし水準を保つため、投稿された論文のうち、その内容、水準の高さ等から見て同誌に掲載相当と判断されたもののみが掲載されることとされている。右掲載の当否の判断にあたるのは、出版社から委託された数名の編集人(いずれも生物物理学を専攻する学者であり、被告もその一人である。)であり、各編集人は編集委員会の一員であるが、編集委員会が現実に開催されることは殆どなく、投稿論文の採否は、右2の記事に従って論文の送付を受けた編集人が個別に決定するのが通例である。

以上認定の事実によれば、本件雑誌自体、広く研究者から多数の論文が投稿されることを前提として成り立つものであり、「著者へのお知らせ」は、右論文を公募することを前提としてその具体的な応募要項等を記載したものにほかならないから、本件雑誌においては、前記「著者へのお知らせ」等の記事によって論文の応募要項を示し、広く論文の投稿を募集する旨の広告をしていたものと解するのが相当である。しかして、前記認定のとおり本件雑誌がノース・ホランド出版社ないしエルセビア社により出版されていることからすると、右論文募集の主体は、被告ら編集人ではなく、ノース・ホランド出版社ないしエルセビア社であったものというべきである。

原告は、右論文投稿の募集は編集人である被告がその名で行っていたものであると主張するが、右主張事実を認めるに足りる証拠はなく、かえって、〈証拠〉によれば、本件雑誌はあくまで右各出版社が主体となってその資金により出版しているもので、編集人は雑誌の表紙にこそ氏名が掲載されているものの、その地位は出版社から委託を受けて投稿論文のとりまとめ、採否の決定等を行うほか出版社に対して本件雑誌の内容や方針について監修を行うにすぎないことが認められるから、右主張は、採ることができない。

そうすると、右論文募集広告の法的性質を問うまでもなく、原告と被告との間にはいかなる契約関係の成立も認めることができないから、右契約関係の成立を前提とする原告の主位的請求原因は、この点で既に失当である。

三  そこで、次に、予備的請求原因(不法行為による損害賠償請求)について判断する。

1  自然科学の研究者にとって、研究の成果を上げるとともに、これを発表することが、自然科学の発展のためだけでなく、研究者自身のために基本的で重要な利益であることは、公知の事実であり、このことを考慮すると、学術雑誌による募集に応じて論文を投稿した者は、掲載相当と判断されたときに右論文が当該雑誌に掲載されて研究の成果を発表する機会を得られることについていわば期待的利益を有し、右利益は法的保護に値するもので、その侵害は、その態様等により、不法行為となることもありうると解するのが相当である。

もっとも、投稿された論文の掲載に関する決定、その結果を通知するかどうかなどの雑誌の発行を巡る事項の処理は当該雑誌の出版社や編集人が自ら立てた基準に従って自由になしうるのであり、雑誌に論文を投稿した者が当該雑誌への論文の掲載を求める権利を有するものでないことも、論をまたない。このことは、雑誌が学術雑誌であって、科学の振興及び研究者の育成に寄与すべき社会的機能と使命を有するものであることによっても、基本的には変わるところがない。日進月歩の自然科学の分野においては、研究の内容の価値とともに、これを他に先駆けて発表することも研究者にとって重大な価値を有することは公知の事実であるといってよいが、そのことは、投稿者が雑誌に論文の掲載を求める権利を有すると解すべき理由になるものでもない。投稿した論文について掲載の希望がかなえられない場合、投稿者は、投稿を撤回し、他の雑誌に投稿するなどして研究内容の発表に伴う利益を確保すれば足りるし、また、それによって右利益は確保されるというべきである。

そして、右利益を確保するために、投稿の撤回は、投稿した雑誌によって掲載する旨の決定がされた後はともかく、後記認定のように二重投稿が好ましくないとされていることとの兼合いから、また、編集人又は出版社が投稿を受けた論文について雑誌への掲載の決定をしないで放置し、これを社会的に葬る権利を有しないことからも、募集要項において投稿の撤回を禁止する旨定めても禁じることはできないと解するのが相当である(もっとも、〈証拠〉によれば、「出版社は、著作原稿を受領次第、著作者に著作財産権の譲渡を求めることになる。」旨の記載があるが、これを原文(英語)と対比すると、右の「受領」は、出版社が投稿に係る論文の雑誌への掲載を決定することを意味することが明らかであるから、右説示と矛盾するところはない。)。

2  本件雑誌において論文募集の広告がされ、投稿論文が閲読に供される旨及び投稿論文は編集人に直接送付すべき旨明らかにされていること、これに従い送付された投稿論文の掲載の決定が本件雑誌の出版社から委託を受けた編集人の判断に委ねられていること、並びに被告が本件雑誌の出版社から委託を受けた編集人の一人であることは、いずれも、既に認定したとおりである。また、〈証拠〉を総合すると、本件雑誌への掲載の当否が判断されるまで、論文の原稿は、閲読者への送付分を除き、編集人が自ら保管し、出版社又は他の編集人には右論文が投稿された事実及びその取扱いの経過が告知される仕組みとはなっていないこと、本件雑誌上に編集人の名が表示されており、そのことが研究者らが本件雑誌を信用してこれに投稿する一つの動機となっていること、並びに生物物理学の研究者の間においては一つの学術論文を同時に複数の出版社に投稿すること(二重投稿)は望ましい態度とはいえないものと評価されていることがそれぞれ認められる。

被告が本件雑誌の編集人であって、本件雑誌に論文を投稿した者とは直接の契約関係に立つものではないことは先に判断したとおりであるが、一方、論文の投稿者が本件雑誌に論文の掲載を求める権利までは有しないものの、右掲載による研究成果の発表について前記期待的利益を有すること、被告が本件雑誌の出版社から委託を受けて編集人となり、論文の掲載を決定する権限を与えられていること、本件雑誌において編集人の氏名が明記され、編集人に送付された投稿論文が閲読される旨表明されていることなど右認定の事情をも考慮すると、本件雑誌の編集人である被告は、出版社に対して委託契約上の義務を負うのはもとより、出版社の論文募集の広告を信頼して論文を投稿してきた者に対しても、当該論文を遅滞なく閲読審査するなどし、投稿者の前記の期待的利益を違法に損なうことがないようにすべき信義則上の義務を負うものと解するのが相当である。そして、投稿に係る論文の採否の決定が編集人に委ねられ、編集人は右決定の結果を投稿者に通知すべき法律上の義務を負うとはいえないから、右編集人に右信義則上の義務違反があるというためには、編集人において、単に論文の閲読審査に迅速を欠き、又は掲載しない旨の通知をしなかったというだけでは足りず、投稿に係る論文を掲載相当と判断したにもかかわらず不法な意図の下に掲載を遅滞させるか、又は掲載不相当と判断した場合であっても、投稿者が投稿を撤回し、時宜を得た時期に他の学術雑誌に投稿するなど他の手段によって研究の成果を発表することを違法に妨げ、又は困難にしたものと認めうる事情があることを要するものと解するのが相当である。

四  そこで以下、右の観点から、検討する。

1  請求原因5(一)の事実(被告の地位)は、当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、以下の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

(一)  被告は、原告が名古屋大学の大学生及び同大学大学院生であった当時の指導教授であり(右事実は、当事者間に争いがない。)、その後も、原告を早稲田大学理工学部の助教授に推薦し、原告が研究者のための奨励金を受けられるよう推薦するなどして原告を援助してきたとの認識を持っていた。

(二)  被告は、昭和五五年一〇月頃、原告から本件各論文の原稿各三通の郵送を受けた直後、自ら右各論文を概観的に通読し、本件単名論文については新たな知見に乏しく、本件共著論文については右の主題であれば当然になされるべき実験を欠いているため、いずれもそのままでは掲載に値しないと判断したが、一応、その主題についての権威であり、かつ、原告の米国留学中の指導教授でもある米国のカリフォルニア大学のモラレス教授の閲読を仰ぐのが相当であると考えて同教授を閲読者(編集人から委託されて論文を閲読し編集人に対して当該論文についての意見を述べる第三者。審査員ともいう。)に選定し、本件各論文を受領して約一か月後、同教授に対し、右各論文の原稿の写し各一通を航空便で送付して右各論文の閲読及び審査を依頼した。

(三)  モラレス教授からは、その後、本件各論文について何らの意見も寄せられなかった。本件雑誌の創刊にあたり、投稿論文が掲載相当と判断された場合には投稿から出版まで六か月以上にわたることはないであろうとの予告がされており、実際にも、昭和五五年及び五六年当時の本件雑誌の掲載諸論文については、論文受領から掲載までの期間は長くても一年程度にとどまっていたが、本件各論文に関しては、被告は、送付後一年を経過しても同教授から回答のないことをもって、同教授もまた本件各論文について否定的評価に至ったものと解し、モラレス教授に回答を催促することもしなかった。

(四)  本件雑誌や他の学術雑誌において、投稿に係る論文を掲載しない旨又はそれについて修正を要する部分を指摘するための投稿者への通知等は書面によって行われるのが通例で、被告も、本件雑誌の編集人として、書面又は口頭で右通知を行っていた。しかし、原告は論文が掲載されないという事実によって本件各論文が掲載不相当の判断を受けたと理解すべきであると考え、被告は、原告には、右通知を一切しなかった(被告が右通知をしなかったことは、当事者間に争いがない)。

(五)  昭和五六年一二月八日、文部省科学研究班会議の懇親会において同席した原告から本件各論文の迅速な処理の催促を受け、被告は、原告に対し、モラレス教授に本件各論文の閲読及び審査を求めているものの未だ回答が来ない旨を述べた(右事実は、概ね当事者間に争いがない)。

(六)  その後も、昭和五七年六月二日頃、原告は、被告に対し、本件各論文の取扱いについて問い合わせるとともに可及的早期に両論文を本件雑誌に掲載して欲しい旨を告げた手紙を送付し、更に、同年八月、オーストラリアのシドニーで開催された国際シンポジウムにおいて同席した際も、同様に掲載の催促をしたが、被告は、やはり、モラレス教授から未だ返答が来ない旨を告げたのみであり、同五八年秋、岐阜大学の黒野キャンパスにおいて開催された日本生物物理学会において原告が再度本件各論文の処理について尋ねたのに対しては、被告は依然モラレス教授から回答がない旨及び本件各論文についてはなるべく前向きに処理したく、被告自身が本件各論文を検討している旨を告げた。しかし、被告は、以後、本件各論文の取扱いについて、何らの連絡もしなかった(この事実は、当事者間に争いがない。)。

(七)  生物物理学の学術論文を発表する場としての雑誌は、本件雑誌よりも高水準というべき雑誌も含めて他にも存在し、また、本件雑誌においては、掲載することが決定された論文について著作権の譲渡を求められる外、投稿の撤回・再投稿を禁止する規定はなく、原告は、他の雑誌が存在することは知りながら、右の間、本件各論文の内容をこれら他誌において発表する等他の方法によって発表する機会を得ようと検討したことはなかった。

(八)  被告は、時の経過によって原告が本件各論文の本件雑誌への投稿を断念するものと考えていたが、右のような原告の催促を受け、昭和五八年頃に再度本件各論文を閲読したものの、当初閲読した際と同様、そのままでは掲載不相当であると判断した。しかし、被告は、従前の被告の指導方針などから、被告自身が閲読していることを原告が知った以上は原告の側から本件各論文について指導教授であった被告の意見を求めてくるべきであると考えて、原告からの接触を待つことにしたが、原告からは以後何らの対応もなく、昭和六〇年一〇月九日、本訴が提起されるに至った。

2  本件各論文が本件雑誌に掲載されるに値するものであったかどうかは、原告が本件雑誌への右論文の掲載を求める権利を有するものでない以上、本件における法律上の争点にはなりえないが、右認定のとおり、被告は本件各論文について掲載不相当との判断をしているのであるから、本件各論文が本件雑誌に掲載されるべきものであることを前提とする原告の主張は、その余の点について見るまでもなく、理由がない。

また、右認定の事実によれば、被告はモラレス教授が否定的評価に至ったものと判断した時点で通常閲読者から意見が寄せられるべき期間を超えた頃(閲読者への原稿送付後、遅くとも約一年を経過した頃)までには本件各論文が掲載不相当であるとの確定的判断をしたものであるから、右判断は決して迅速とはいえないものの遅きに失するとまでいうことはできないが、その後も自らは掲載不相当と判断しながら原告に対してその旨の通知も論文原稿の返却もせず、かえって原告から尋ねられると未だ掲載の可能性があるような返答をし、結果として長期にわたり原告に掲載への期待を与え投稿を維持させたものであって、右は、投稿論文の雑誌への掲載を決定する権限を持った者の行為としては投稿者への配慮を欠く無責任なものであったと評せざるを得ない。

しかしながら、少なくとも当該分野において他の相当水準の雑誌が存在し、原告においてもそのことを知りながら、論文投稿後優に三年を経過した後に至るまで依然本件雑誌への掲載にのみ固執し、その間論文を他の雑誌へ投稿するなど他の発表手段を検討することすらしなかった原告の行動も、自己の研究成果の迅速な発表を期待する研究者の通常とるべき態度であったとは解されない。このことを考慮すると、本件においては、被告が原告において本件雑誌への投稿を撤回し、他の雑誌に投稿するなどして本件各論文の内容である研究成果を迅速に発表する機会を失わせたということはできない。

原告はラメシュ・バンダリの論文によって本件単名論文の学術的優先価値が損なわれたと主張するけれども、右ラメシュ・バンダリの論文の発表時期が昭和六〇年七月一日である(当事者間に争いない。また、〈証拠〉によれば、右掲載雑誌による論文の受領は同五九年一〇月であると認められる。)ことからみて、既に右論文の存在が右認定を左右するものではないことが明らかであるから、右主張は、採ることができない。被告は、原告から当該論文の掲載を期待して尋ねられるといわばその場しのぎで期待を持たせるような返答をしたことは前記認定のとおりであるけれども、そのような態度も、右返答の時期的間隔や態様からすると、未だそれが原告による投稿論文の発表を不可能又は著しく困難ならしめたものとまで評価することはできない。もっとも、本件各論文が掲載に値しないものであれば、端的にその旨を伝えれば足りるにもかかわらず、被告は、投稿後相当期間経過しても本件各論文が掲載されない事実から原告において右各論文が掲載不相当と評価されたものと気付くべきであり、掲載を希望するのであれば、論文の問題点について原告の方からかつての指導教授であった被告の意見を求めるべきであると考えていた、というのであって、このような考え方が理論又は実験によって明確な結論を導くことができる事象を対象とする自然科学の研究者の発想とどのように結び付くのか理解を超えると評する外ない。しかし、被告が原告の指導教授であったという事実が被告に右のような態度を採らせた一つの主要な動機であったことは明らかで、右以上に原告の論文発表の機会を失わせようとする意図の下に被告が右のような不可思議な態度を取ったことを窺うに足りる証拠もないことからすると、本件各論文に対する被告の取扱いは本件雑誌の編集人として無責任なものではあるが、それが原告において投稿を撤回し、他誌へ投稿するなどして他の研究発表の手段を採ることを不可能又は著しく困難ならしめるなど、研究発表の機会を違法に奪ったとまでいうことはできない。

このような事情に鑑みれば、本件におけるような論文の投稿を受領した後の被告の行為は、自然科学者という専門家集団内部における道義には著しく悖るとされるようなものであることは推測に難くないが、未だ不法行為が成立するものとまでいうことはできないと解するのが相当である。

そうすると、その余の点について判断するまでもなく、原告の予備的請求もまた、理由がないことが、明らかである。

五  よって、原告の請求は失当であるから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 江見弘武 裁判官 小島正夫 裁判官 杉原 麗は、転補のため、署名、押印することができない。裁判長裁判官 江見弘武)

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